ブチャ猫ダイアリー

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Thu, 17, Jan, 2002 [長年日記]

_ 1月17日

阪神大震の日なんだけれど、わたしにとっては、父の命日なんだわ。

母が震災の前の日に友達とお茶を飲みながら、「明日は主人の命日だわ、なんて言ってたら、こんなことになってしまって・・・」といったのをハッキリ覚えている。

あの朝、母から地震があったと電話があった。いつもグチばかり言うので、「何を朝からいってんのよー。関西では滅多にないけど、こっちでは日常茶飯事なんだからー、いちいち騒がないでよーぉ」と冷たく言って諭し?た。母は「そうかー」と言って電話を切った。(「羊飼いの少年とおおかみ」の少年よろしく、いつもグチっていると、肝心な時には信用されないものなんですよ>おかあさん。)

そのあと、何だか気になって、テレビをつけると、神戸の御影付近をヘリコプターから映している。煙が立ち昇っているではないか。慌てて母に電話をかけたが繋がらない。西区に住んでいる弟夫婦にも繋がらない。それが朝の8時半ごろだった。それから夕方5時ごろに母の方から電話が来るまで、どんなに心配したことか。テレビでは長田区の火事のニュースばかり報道しているんだもの。そこから、母のところまでは近いから。

後で知ったんだが、あの時公衆電話は繋がったんだそうな。それを知っていれば、あんなに心配せずにすんだのにねぇ。

_ 弟嫁から聞いたが

それもまたびっくり。弟の出勤が早いので、5時過ぎには食事をしていたという。地震のときはダイニングにいたから助かったんだと言う。寝室のタンスが布団の上に倒れていたんだって。

_ いまは京都に住む友。

あの朝、三田のほうにある、保養所で、仲間と楽しんだ後だったと言う。地震のすぐ後、すばやく灘区に戻ると、娘の1人がマンションの一室で震えていたので、すぐに2人できょうとの息子さんの下宿に逃げたという。その下宿で、息子さんの、フィアンセと彼女の家族で、5〜6人でしばらく住んでいたそうな。

その友は神戸に見切りをつけて、家賃を6ヶ月かん無料にしてくれるという、有り難い救済策に甘んじた。彼女は毎日京都から、電車が走れる区間だけ乗ってあとは線路をあるいて、マンションまで通って、色んな用事を済ませたという。彼女はわたしの大好きな北野町界隈で、一点物の趣味の店を経営していたんだが、水道管の破裂のため、店は台無しになってしまった。結局一文無しになったんだが、彼女は強い。いまでは、とある店の経営権を任されている。

_ もう1人の友

会社の状態が思わしくなかったところへ、あの地震。宅急便も動きが取れないので商品がはけない。それで、とうとう倒産。うん千万円の借金をかかえてしまった。あれから7年、彼女は偉い。その借金はもうすぐ返し終わると連絡があった。女手一つで ねぇ・・・。自殺した経営者が多かったが、彼女は恵まれていたんだろうなぁ。

彼女は豪傑。震災の後、会社の若い人達で、家が(アパートの独り暮らしだったのかもしれない)無くなった人たち5-6人の面倒をみていた。配給を貰いに行く暇なんか無かったといっていた。ということは、備蓄がいっぱいあったということになる。彼女、今60歳を過ぎている。そのときはー7さいだけれど、豪傑さんねぇ。

_ 大変でしたねぇ

こんな体験をなさったんですねぇ。

_ 震災にあって

実家がこちらなので、帰ってきた若者が、ショックを受けたという。何故なら、神戸では、皆大変な思いをして生きていくのに精一杯なのに、こっちでは、普通の暮らしをしていたから。

彼は2階建のアパートで寝ていて、地震で飛び起きて外へ出ようとしたら、階段が平ら?になっていて、ドアを開けたら地面だったと話してくれた。

_ 泣いた赤鬼

じゃなくて、お医者さん。

地震のニュースはずーっと見ていた。あるお医者さんが、インタビューされていた時、その先生の目から、大粒の涙が吹き出してきた。こぼれるなんてもんじゃない。身の丈180センチ以上あるかと思われる立派な体格の方のそんな様子を見て、地震の後の色んな出来事でパニックになっておられたのかなぁと思った。その先生は、食事もろくにせず、患者さんを診ていらしたし、家も住めない状態だったように記憶している。

_ 関西人のユーモア?

ある消防士が映っている。火事の現場で、ホースを持っているんだが、水が出ないと言っている。貯水層がひび割れて、水が無くなってしまったらしい。「あかんわー、水でーへんでー。火ーけされへんやんかー」と曾我廻家五郎八の口調で叫んでいる。これを、関東人が言えばたぶんこう言うと思う。「あっ、だめだ!水が出ない。火を消せないじゃないか」。

関西弁の柔らかさが、地震の後の復興には、一役買ったと誰かが言っていた。

_ 神戸駅

神戸に行って良しという時期がきたので、配偶者と飛んで行った。三宮はグチャグチャだった。そごうがテロにでもあったかのように、鉄骨がむき出しのまま残っている。しかし、神戸駅周辺は被害が少なかったらしく、人で溢れていた。もともとは客の少ない駅の地下商店街なのを知っているので驚いた。仮設住宅の人達や、寂しい人達が集まってくるのだと聞いて、納得した。

_ ブティックのはずなのに

トア・ロードの店の前にテーブルと椅子を出して、食べ物やを始めた友がいた。その人は華僑。仲間で助け合いをするために、それを始めたみたい。仕事がない人達がそこで働いた。京都にいった友もそこでしばらく働いた。繁盛していたらしい。その時、ここで何も出来ずにいた自分が歯がゆかった。

今は、ブティックに戻っている。トア・ロードの小さな、小さな中華服のお店。わたしと同級なので、高齢だが、ホントに素敵な人。娘がすっかりファンになったくらい。

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_ SORA (Thu, 17, Jan, 2002 14:42)

表向きは、復興したように見えるけど、まだまだ震災の傷は残っていますよね・・・・・。


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