Thu, 08, May, 2014 [長年日記]
_ 『コクリコ坂から』を
iPadで見た。
東京オリンピックの頃の話だから私の青春時代の話しになるね。
ストーリじゃなくて車や電車が懐かしくて見入ってしまった。
まさにアンナ風な風景だったからね。
あの舞台は横浜、神戸と似てるから尚更親近感を覚えるのかもしれない。
_ 会話から
朝ドラを見て相方と昔話をしているうちに長崎の原爆投下を見たとおじいさんが・・・。
そこで私が思い出したのが、最初の標的は小倉市(今の北九州市小倉区)だということ。
私は4歳まで若松市(今は若松区)に住んでたからあの時の晴れてて視界が良かったら・・・。
考えるとゾッとする。
あの辺りには山が無いから広島みたいに全滅してたんじゃないかな。
小倉駅から若松駅まで有料道路を使って車で15分くらいらしい。
『長崎原爆の被害
_ 原爆は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させた。爆心地である浦上地区は長崎市中心部から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であり、広島市の場合と異なり県や市の行政機能は全滅を免れている。[26]。浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時にゆるしの秘跡(告解)を行っていたが、司祭の西田三郎・玉屋房吉を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。
_ 長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍・蘭軍兵士)の死傷者も大勢出たと云われている[27]。
_ 特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆・または出張等で広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したと云う事例(二重被爆)も確認されている[28][29]。』